今日から勤務です

夢でも幻でも無く、今日から勤務になりました。但し、座席は暫定的でしたが(理由:私は定年退職される方の引き継ぎを受けることになったので、その方の隣の共有スペースに席を置くことになりました)。

京王線ダイヤ改正

22日からダイヤ改正だったんで、時刻表買ってみました。

改正ポイントを辛辣に言うと

  1. しばらく運行していなかった「特急」の復活、但し停車駅は準特急と一緒
  2. しばらく廃止されていた「特急 橋本行き」の復活
  3. 「通勤快速」を「区間急行」に変更、全日運転(新宿から調布までは通勤快速と急行の停車駅に差が無い)
  4. 「快速」が調布以西各駅停車

なんですが、細かく見ると以下のように。

  • 「準特急」は休日の高尾山口行きのみ。ちなみに北野から先は各駅停車
  • 夕方以降の新宿駅発「快速」の行先が高尾山口行きに、各駅停車が橋本行きに(改正前は各駅が高尾山口行き、快速が橋本行き)
  • 日中の「急行 橋本行」は全て「区間急行 橋本行」で、新宿線直通
  • 新宿線直通で「快速 調布行き(調布から急行 橋本行き)」の代わりに「急行 調布行き(調布から各駅停車高尾山口行き)」が増設
  • 日中・夜間「急行」「区間急行」は新宿線乗り入れ
  • 調布-橋本間の折り返しが激減(朝7時前までと、夕方の折り返し以降は22時台までなし)
  • 「特急 橋本行き」は調布で先に入線している「各停 橋本行き」と接続。「各停 橋本行き」は次の「特急 京王八王子行き」とも接続。

思うに、調布の地下化で「橋本行きの折り返しのために、調布から車両をつつじヶ丘まで回送して、つつじヶ丘で折り返す」というのが、調布以西でダイヤが乱れた時に相模原線も止める事になったとか、以前なら特急で調布へ行って乗り継ぎの急行が出たらすぐ各停が入線して(地上駅時代は調布で折り返していた)各停高尾山口行きと待ち合わせていたのに、各停高尾山口行きの後に入線するようになり、ホーム混雑が激しかったりとか、あと相模原線内の優等列車が稲城市内に泊まらないとか、そういう不便に対処するためなんでしょうな。

でも、やっぱり新宿線直通が昼間20分に1本とか、朝でも10分に1本とか、少ないと思うんだよね。それだけ京王線内の自己回復能力が弱いって事の証明でもあるんだけど。

ご報告その2

一応、畳みます。

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最近思ったこと(2)体罰

はい、体罰は悪です。但し、それは「分別つく、理性ある者に対して」ならです。
従って、「絶対悪」ではありません。

体罰による指導矯正は、心理学的には「行動心理学」の中の「反射」、つまり生物学的に言う「条件反射」、一般に言う「パブロフの犬」です。

つまりね。「理屈が通じない程度の相手に、恐怖という反射で行動を抑制する」事であって、ぶっちゃけ「度が過ぎない」範囲で体罰は有効な教育手段となりうるのです……但し、使い方を間違えたなら、加害側のストレス発散でしかなくなっちゃう訳ですね。

従って、必要な範囲での体罰は容認されてしかるべきです。何でもかんでも体罰を認めない、というのは、はっきり言って「育児放棄」と同列です。
もうちょっと言うと「体罰」と「暴力」は全く別次元のものであって、その境界をあいまいなままに「教育における暴力」=「体罰」という現状において、「体罰」は絶対悪でしかありません。

正直に言ってしまうならば、体罰の対象は、小学校中学年までですよ。

だからと言って過度の体罰は単なる暴力です。
間違えてはいけないのは、「自分の言うことが出来ないから暴力」というのは体罰では無く、暴力です。
体罰とは、「理を持って説明し、正しく行うことを指導したにもかかわらず、真逆のこと犯した罪に対するペナルティ」です。
加減を知らずにやることではありません。

従って、「俺様帝国」の絶対性を維持する為だけの暴力は、体罰ですらありません。自分の説明指導能力の低さを誤魔化す悪行です。
但し、「誰もが納得する理を持って説明し、正しく行うことを指導した」にも関わらず、犯罪・反社会的行為を行ったならば、それは多少異なるでしょう。
「誰もが納得する理を持って説明し、正しく行うことを指導した」にも関わらず、それをしなかっただけなら、その人の評価が落ちるのは正当ですので、その人はフェイドアウトするのみです。それは親がねじこめないくらいの正当性だから。

でね。今回ハシシタさんがやった事は、体罰と同じ「俺に従え」アピールなので、あれは失格っつうか、独裁者だね。裸の王様。
正しく行うべき「指導者を雇う金を学校予算の中に入れる」事、「指導者の評価基準を明確にし、適正でないものは1校あたりの一定期間以上の継続雇用を認めない」こと、ですよ。いつまで教員に指導させるんだって事の方が大切な話。
体育科の存廃は、それらの仕組みが出来てからの話でしょうに。
なんだかねえ、あの人に政権政党さらせるわけにはいかないよね、という気がますますしてきたわ。

あくまで体罰の話と体育科の話は全く別問題です。それを一緒くたにしてしまのは、如何なもんでしょう?

最近思ったこと(1)嫌煙権

とあるところで、嫌煙権至上主義者が「禁煙しないこと」についてなんか書いておられたので(多分その方、およびその場をご覧になっている方はここをご覧になってないと思いますし、私がそこを見ていることをご存じないと思います)。

正直に申し上げてしまうと、「嫌煙権至上主義者」というより「煙草害悪論絶対主義者」という気がして、そういう人に対して嫌悪感を抱くのでございまして。
※ついでに言うと、発言小町に多数生息する「法律でなってないから、夫の親は自分の親ではない嫁」にも嫌悪があります。あと、「運動不足だから運動しなさい。運動すればストレスも解放される」と通り一遍の事しか言えないアホ産業医にもね。

そもそも「権利」とは何か。
これは難しい議論なんですけど、一派感論としていうと
「所属する社会環境において、その環境維持における義務を果たしたことによって自らの利益を守ることを主張しうる資格、および行動」
だと考えられます……法律論的には。従って、準拠しうるものは「所属する社会環境」の中のことです。
従って、それを国家社会や行政区分において示すと、絶対守らねばならないのは「法律」であり「規則」な訳です。
ちなみに、これは明文化されたもの、とは限らない訳で、そこが問題。
そこを見ないふりして偉そうに語るのがアメリカかぶれ、という事。

アメリカンのような他民族移民国家の場合、その入植地ごとに元々の風習があるから、そこの風習について明文化していおかないと「問題解決」が出来ないので、各地域毎の決めこどを明文化している訳です。これが行政区単位で積み上がって、国益を守るべく「合衆国の法律」があり、下位概念して「州の法律」が存在する訳です。
マイノリティの権利は相当遅れて合衆国法側から降りてきた。いわゆる農奴に関する権利は、南北戦争時の政治的傾向である。先住民の保護は「希少動物扱い」である。まっとう正面から権利を語った事例なんてありはしないのですよ。
なので、いまだにマイノリティ差別が続いてるのは、それが「文化」という不文律でかたどられた「所属する社会環境」が立ち位置だから、なのです。
従って、このような社会学的側面から見た場合、「権利」=「説明不能なまでに社会に浸透した不文律に対して、屁理屈と言われようとも理詰めで説得して変化を起こさせる物」となる訳です。

で、嫌煙権。実は禁煙は日本に葉煙草喫煙文化が入ってきた(確か南蛮貿易が契機だから)室町時代末期から、特段厳しい制限が課せられていた訳ではない(し、取り締まりが出来た訳ではない)。法律上未成年の喫煙が禁止されたのは明治33年だそうだけど、年齢の記載は昭和22年だそうだ。ちなみに戦前の小説を読むと、明らかに高等小学校程度の年齢の未就労者(いわゆる不良少年)が煙草を吸うことをとがめる描写はないんですよね。
このような事から考えて「喫煙」は文化なんですよ。

だから、嫌煙権は文化に対して理屈で楔を打つ行為です。それ自体に何の問題もありません……その適応範囲が「自分とか自分の家族」に関わる範囲であれば、という話です。
つまり「私は、私の家族は、受動喫煙をしたくありません」という権利はあるんです、それは人間らしく生きる権利として、ね。
でもそれを「健康に悪い喫煙は誰彼なく辞めるべきである」とか「子供たちが見てあこがれてしまったら」とか、そういう妙な理屈で社会正義に仕立て上げて正義の行使のように言うのは、私は反対ですね。
(反対するのも権利ですから)

ぶっちゃけ、嫌煙権とは「私が嫌」という権利に過ぎないのですよ。社会正義を名乗る資格なんてないんです。単なるエゴ。煙草吸う人と大差ない、きわめてちっちゃなエゴイズムの一つに過ぎないんです。但し、「健康に生活する権利」と「嫌な物を拒絶する権利」において、要求することは正当な資格に基づいている範囲の、エゴです。
エゴ、と言われてムッとする人もいるでしょうが、ここでは「自己主張」と言い換えてもいいですよ。エゴとエゴのぶつかり合いを調整するのが「約束事」なんであって。そんなものは時代と共に変容するもんです。

ですので、「自分の子供に煙草を吸っている人の姿を見せたくない」という権利はあったとしても「他人の子供が喫煙する姿を見て煙草を吸うきっかけになるかも知れないから、喫煙は廃止すべきだ」という権利は世の中に存在し得ない。なぜならば、その子供が煙草を吸うかすわないかは、その子供の家庭の教育指針です。抑止できない事はその家庭の脇が甘いだけの話、嫌煙権主張者の利益には全く関与しないですよね? 従ってそんな権利は嫌煙権の範囲ではないのです。

煙草というものを廃止させたかったら、政治家になって法律を変えれば良いだけです。いや、だけではない。煙草を廃止するということは、国内にいる葉煙草生産農家に「死ね、のたれ死ね」と言うことですから、彼らが「葉煙草作ることにメリットがない。自分たちの生活を守るために割のいい仕事がある」という方向に舵を切らせる努力もしっかりして転作対策をしっかりして、また昔の専売制度の名残で残っている町のたばこ屋さんも転業促進して、という大局的に追い詰める事が出来て初めて廃止できるんじゃないですか?

よくアメリカのスポーツでは煙草は絶対吸わない、という意見を聞きますけど、逆に大麻やマリファナで検挙されて保釈金ですぐ出てくる奴多いですよね?(ついでに言うと、追放された後の事は報道されてないだけですよね)。飲酒に寛容な文化でありながら、飲酒事故多発してますよね? そういう比較の点で、本当に禁煙行為だけが正義なんですかね。私は疑問です。

とはいえ、個人的に「嫌煙権」を行使する方を否定している訳ではありません。かつて喫煙者だった私としては、彼らに不快な思いをさせた事について、ちっとは反省してますし、彼らが「嫌っ」ていうなら、彼らの権利を守る義務が喫煙者にはあると思いますよ。
そもそも喫煙者の低いモラル(喫煙所で無いところで平気で煙草吸ってポイ捨て、とか。そうやって自分の首絞めてる訳だからね)が嫌ですから。

ただ、「喫煙権は正義!」とか抜かすんだったら、それは「ふざけんな」と言うだけです。

正義なんて相対的なもんなんだから。

※国家的に健康に言及するのは、「納税義務を果たせる人間を多く確保する為」という経済学的な意見があります。ただ粋すぎた結果が「老人介護にそれ以上に金を出す」ということになっている事も事実ですが。あ、いえ「長生きして欲しい」と願う権利は阻害いたしませんよ。ただ、学問統計的な話ですからね、これは。

ちょっと静かにしてますが

生存証明についてはFacebookにて行っていますので、こっちがわりかし静かになりました。

いちおー、電子書籍は途中で方向転換して、現在『銀河英雄伝説』をやってます。
Kindle対応の細かいところで気づかなかった所とか入りましたので、近々そのへん含めてメモを新しくしたいなと。

あと、引きこもっていても仕方ないので、現在再就職支援会社の共有スペースに定時出勤することにしています。

というわけで、無事これ幸い。

駅弁大会に思う妙なこと

ちょっとしばらく、新宿に通うことにしました(一二月に引きこもっていた為に生活状況がグタグダになったまで、まずそこから直そうと思いましてね。)

で、10日から通い始めて、京王百貨店の所で行列出来てて、それで「ああ、駅弁大会か」と気づきました。
その晩の帰りに寄り道初めて、今日の昼間もちょっと顔を出したんですよね。

まず、駅弁って、「長時間列車で移動するとき、昼食や夕食を車内で取るもの」で、「冷たくなったものを熱いお茶で誤魔化して食べるもの」だというものと割り切ってますので、正直「海鮮丼風」みたいなのって、そもそも駅弁じゃない訳で。
冬場のガンガンのヒーター効いた車内で1時間は放置されても傷まないのが原則だから、生もの入れるのへんだし。

さらには(買ったんですけど)「横手やきそば弁当」に至っては電子レンジ推奨! それって車販カフェテリア用だろうが、駅弁じゃないやい……。まだ「ひも引っ張って暖かくする奴」の方がましだ。
さらに「ワンピース駅弁」とか、目も当てられないよ。

まあ、そこはいい。
ただ嫌なのは「駅弁大会を販促にしたいがために、特別なもの・新作をそこに持ち込んで媚びを売る」のは、なんかもう、筋違いというか。ってか、それって本末転倒!?

もっと嫌なのは、行列して買っている人の、一体何人が「じゃあ、そっちに旅行に行こう。行った時列車で行こう。列車に乗ったときはこの駅弁を買おう」と思っているか、だよね。
稚内とか根室とか、絶対列車で行きそうにないじゃん、こういう人たち。
そーゆー所に、今は違和感を感じます。
それこそまだ、町の商店がこぞって取り組む「B級グルメ」の方が健全な気がします。

とはいえ、単に「うまい弁当実演販売」と割り切ってしまえば、しばらくは夕食の食卓は華やかですな(汗)