日本のアメフトが今年で活動88年になる。
ただし、それを体系だって記載した書物は50/60年史(関東で75年史が出たんだっけ?)しかないので、協会のページから拾い読みして見た。但し社会人視点で。
アメフトの日本協会は1938年に設立され、長く普及に対する施策を立案・実施してきた訳であるが、戦前は主として東西対抗の主催とチーム創設の支援に尽力してきた団体である。
※戦前の東西対抗はOB・各地のYMCA所属外国人も参加できたオープン大会。
ちなみに現在国際標準になっている「6人制」は、この頃に日本で発案されたものだそうだ。
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関東と関西の連盟は1946年に設立されたが、終戦直後と言う事もあり、どちらも現在の学連の母体となった(OBチームが存在しないため)。翌年に甲子園ボウルとライスボウル(オールスター)が制定される。
ちなみに社会人は1949年頃から活動が始まるが、関西の「大阪市警視庁(現在の大阪県警とは別で、警視庁の設定が都道府県単位で出来る事に目を付けた大阪府が、大阪市に設置した警察組織。府警が警察庁直下の捜査機関なのに対し、警察庁に嫌われていたそうだ)」を軸に関西連盟傘下で活動していたが、1959年に関東社会人が関東連盟傘下に加入した事で表舞台に記録されるようになる。この際別途米軍基地チームも参加した形で関東連盟は試合を実施している。
社会人はこの後実業団チームとしてヴァンジャケット(東京ヴァンガーズと大阪ヴァンガーズの母体)が1966年に設立。アメカジ文化の中でアメフトが前面に出る事になり、これが後に昭和50年代の第1次アメフトブームに繋がる。
1970年に関西社会人連盟が活動を開始した訳だが、実態としてこの東西社会人は後のJPFFとNFAの中間のような組織だったと思われる(※チーム数が今ほどは無いようなので不明瞭。実際60年史にはこの頃のことは記載が殆どなかった。
この結果、1971年に社会人協会が設立された、のだかこれも60年史に参加チーム等の記載が無い(のて、当時の日本協会傘下では無かった可能性がある)。
ちなみに実業団主体の関東社会人協会(連盟とは別)が1973年に発足する。この協会傘下のチームが1974年に実施したピーナッツボウルが、現在の社会人協会の母体となったという説がある(旧AFMに記載あり)。またこの年から関東社会人リーグは「クラブリーグ」と「実業団リーグ」に分けて開催してそのトップ2チーム同士のトーナメントに移行した。
1975年までに九州連盟、東海学生連盟(1974年からリーグは関西と別開催)、北陸連盟、北海道連盟、東北連盟、及び関西社会人リーグがラ設立される。
なお、1976年からそれまで独立していた実業団が関東社会人協会に復帰した上で「実業団チームが関東学生を招待する」パールボウルが開催(~9回目まで)された。
ただし、ここから暫く東西社会人王座の既述は無く、実業団・東社会人・西社会人の記載しかない。
さらに面倒くさい事に1980年に今まで関東協会傘下だった社会人チームが東日本社会人協会として独立した(だいたい60年史の記載はここから。つまりここまで記録が整備されていなかったという事だと思われる)。
この結果を受けて、東西社会人王座決定戦が1981年から開始される(実業団リーグは含まず。なおこの頃は松下電工は西日本社会人所属)。
そして1983年から、ライスボウルが社会人対学生に変更される訳である。
※なお社会人は暫く実業団が代表に固定される。2年に1度の組織改編はここから始まったようなものである。
実はここまで社会人を統括管理する組織がなく(ビックリだとか言わないように)、クラブチームに門戸を開くために、かつ社会人代表を決定する為の組織として日本社会人協会が1985年に設立された。
※個人的にはここでJPFF社会人チームとNFA社会人チームが分裂したんじゃないかと思っている。プライベート自体は1977年シーズンに横浜フィエスタボウルをやっている。これは東西以外の社会人と大学プライベートチームの大会と認識している。
この改組に併せてパールボウルが関東実業団大会に変更された。
と同時に「実業団リーグ王者」「東西クラブチーム王者(社会人選手権)」の並列(電工が実業団に移籍。警視庁以外が下阪して試合したそうだ)制度を採用。
1987年から実業団王者対東西社会人王者(この制度により電工は西日本社会人に移籍)、後の東京スーパーボウル(のちジャパンエックスボウル)が開催される。
……実はこの時点で学生の窓口である日本学生連盟は存在しない。設立は1990年。
1990年は社会人が東西2地区制に移行した年でもある。
なお、くぼたさんが初観戦した1991年シーズンは、社会人はまだ一部企業グラウンド開催。全試合有料化は1992年から(及び川崎球場が使われるようになったのも1991年・ロッテが千葉移転する前年にプレゲームしてから1992年から本格開催)。
以上を踏まえて。1993年にJリーグが始まるという事を考慮しておく必要がある。Jリーグがプロリーグ化する事を発表したのは1983年(この年から選手のプロ登録を開始している)。
で、実はその頃に「電通がアメフトの興行について打診してきたが、協会側が難色を示したためサッカーに流れた」という話がある。
確かにもうジャパンボウルもミラージュボウル(のちコカ・コーラボウル)は開催されているものの、この状態で日本協会側が対応出来るはずが無い。
※JFAは当時からそういう所の制度設計までして広告宣伝を仕掛けていたから、JSL低迷打破の頃から広告代理店と組んでいた筈なので、Jに流れたというより元々Jとの話が合ったものの、それとは別にアメフトの話が出てきて、東京ドーム(1991年開場)に併せて数年前に話があったが、社会人協会の編成が整備中だったので対応出来なかった、という事なんじゃないかな。
なお。2000年代から広告代理店は(社員であった佐々木康元さんの尽力により)博報堂が続けていた筈である。
さて、そこで右図を参照戴きたい。
河口正史さんのツイッターで上記の電通案件について触れた所、ついたリプライである。(発言者については名を伏してあります)
ここで「Xリーグテコ入れ」という言葉を使っているのがすっごい気になるのである。
Xリーグは1996年にNFAトップリーグを改称改変(正確に言うと、西地区で2ブロック構成するには戦力差が激しすぎたので是正する事と、都心回帰を進めた)したものなので、それ以降の話という事になる。
※余談だが、この改組に否定的だった旧東西社会人リーグ出身の理事が全員席を蹴った、という話がFaceBook上で暴露されている。
テコ入れは2008年頃(ちょうど2009年からセカンドステージ制に以降している)ではないかと思われる。
で、だ。
この当時から実はシーガルスが「自主興行による収益管理」という提案をしている。これはフランチャイズ制を採用している実業団リーグでは「チーム券のキックバック」という方法で使われている既知の方法から「チームが販売時にディスカウント出来る」「座席ごとの券種を指定出来る」という方法でよく使われている手法なのであるが、これを「リーグの責任をチームに負わせる」とか「日本最高峰のリーグにそぐわない」という判断をしている所に注目して欲しい訳だ。
この頃他の競技団体も結構体制変更があったんだけど、基本的に「チーム券を卸すから、原価割れしない範囲で価格設定していいよ」というのが実態だった訳で(前の会社の都合で、アイスホッケーと都市対抗野球で確認。厚生費で落とすか原価売りするか、でした)、それが「ふさわしくない」とか「アマチュアバンドがライブハウス出る時みたいな」になるのって、どうなんだろうと思う。
逆に言うと「損したくなければ自分たちでファンを囲い込め」という実に資本主義的に正しい発言になるのと同時に、今オービックを中心にX1の一部のチームが狙っている流れそのものな訳ですわ。ついでに言うと実業団でなくなったアイスホッケーなんてそのまんまでしょ。
ぶっちゃけ、サブプライムーローン不況の頃から、多くのトップリーグがこういう「チームを維持する為にはチームの努力に応じてチームに金が堕ちる」仕組みにシフトしていた2008年頃の話としたら、相当先見の明のないご意見で握りつぶした(でガルズ以下今歯ぎしりしている)もんである。
もしこれがもう少し前(X開始当初)だったら、この意見はアリだと思うのだが、恐らく今も「協会におんぶにだっこで試合する」精神のチームが多いのだろう。特にマネタイズ系の話がいつもグダグダになり、トップ系の選手からフルボッコ、アンダークラスからフルボッコになっているように見えてしまう。
一度「自分たちが未来に残る為に何をすべきか」という事にフォーカスしたら、あの提案が不当だったかどうか判ると思うのだが……