何故(1)としたかというと、とびとびで続き記事になる予定だから。ただし次回が書かれる保証はどこにもないです。
基本的に書籍というのは「読みたい」と思う人間の欲求と「発信したい」という書き手の欲求が交わった時に、どれだけ市場に流通しているかが発行の決め手になると思っている。
その中間にいる筈の出版社が、その収益性を全面に出して需給バランスを崩したのは、角川書店が仕掛けたいわゆる「文庫戦争」であり、その結果は「悪貨は良貨を駆逐する」だった訳で、価値ある作品が残るのではなく「商売になる作品が、その製品寿命の間だけ生き残る」事になっていった。
歴史的価値のある作品は、学校の副読本指定されたようなものでない限りは残らない。
文学史に出てこない作品は、余命が短い。
横溝正史にしろ江戸川乱歩にしろ、周期的にファンが外部で何かして復活する事があるだけで、代表作として最大公約数の中に入っても不思議ではない作品が品切れで読めない場合もある
※横溝正史で言えば、創元推理文庫がなければ『蝶々殺人事件』は読めない。なぜなら、金田一耕助ではないから需要がない。これは次世代に知識を継承すべき現役作家達の堕落とレビュアー(評論家ではない。ブックガイドの書き手、そして文庫の巻末解説とか雑誌の書評欄で提灯記事を書き殴る人の事。たとえば茶木則雄とか関口苑生みたいな人。つまりそこで作品読後の余韻に付加価値をつけられない人)の質の低さにあると思う。
主に熱狂的なファンがいれば、長い周期の中で入手可能な本を生み出す機会も出るだろう。典型例として言うなら『海野十三全集』『香山滋全集』(ともに三一書房)、『日影丈吉全集』(国書刊行会)がそう。さかのぼれば三一書房の久生十蘭や中井英夫の全集も、代替品が出るまで生きていた(逆に夢野久作のように代替品であるちくま文庫があっさり品切れになって入手困難になったものもあるが)ものもある。
こういったものは、平たく言うと「古本屋を含めて、市場に循環する」書籍だ。
しかし、今回取り上げた佐々木丸美さんは、違った。
昭和50年以降、つまり角川の文庫戦争以降、書籍は大量消費されるものとなり、以前に比べて廃棄されるケースが増えたのである。その時代のミステリ作家に関して言うと、新本格ムーブメントで復活した人もいれば固定ファンがいて生きながらえたものの、新規ファンがいる訳でもないので消えかかっている人もいる。
佐々木さんは後者のタイプで、通常市場から淘汰される運命にあった。つまり、厳しく言ってしまうと昭和60年以降新作を発表出来なかった時点で、佐々木さんは商品寿命を終えた作家だったと、個人的には思っている(さらに言うと、作風も進化できなかったという点において、終わった作家と呼ばれても仕方ない)。
ところが、たまたまニフティ(当時はインターネットではないニフティ・サーブのほう)で凄く盛り上がって。
ニフティの推理小説フォーラムがインターネットに客を取られて一気に衰退して。
そこで盛り上がった女の子数名がその情熱を持って復刊運動に取り組んだのである。
そこに私は入らなかった。
というのも、上記の「需要と供給」から見て、佐々木さんの作品は『崖の館』以外は需要がないと判断していたし(これは今でも変わらない)、そもそも古書市場で充当される範囲のものであると思っていたから。
※そもそも昔のサイトを立ち上げた時だって「こんな作家さん、いたよねえ。懐かしいねえ」という程度でいいとしか思ってなかったし、それ以上の責任を背負いたいとは思わなかった。このへんは価値観の相違であって、佐々木丸美よりも日影丈吉の方が上位に位置していたのもあるしね。さらにその「ドリーマー」な活動に、どうしてもついて行けなかったのですよ。そりゃ俺も30超えていたし、森雅裕みたいな実例見ているし、自分が作家目指していたから、末路まで調べていたから、その行為が通る率が低い事も知っていたから。
で、紆余曲折を経て、復刊運動はブッキングと創元推理文庫による復刊、ならびに予想外の結果(未文庫化作品だった『罪灯』と『罪・万華鏡』、ならびに孤児4部作も創元推理文庫入りの予定が出た)を果たしたのである。
彼女たちが活動の終点を見いだしたとブログで告白した事を受けて、「ご苦労様」と告げたいと思う。凄く苦労したのは聞いているし、佐々木さんの突然の訃報もあったし、その中でここまでこぎ着けた事は、偉業だからね。
いまの出版界では、考えられない結果なんですよ、これは。
でも……(以下、次回。ただし次回がある保証はない)