族に「40にして惑わず」という事から40歳を「不惑」と言う。
しかし実際は「40となりてにっちもさっちも行かず、ただ諦めている」だけではないだろうか。
起こりうる事態をただ唯々諾々と受容するしか、道はないのである。そういう生き方してきた以上、最早戻ることなど出来ないのである。
ひたすらに、ただひたすらに今のまま惰性であと20年会社に勤める他ないのだ。
……本日、40歳の誕生日を迎えました。
我ながら、後ろ向き引きこもり人生、です。
族に「40にして惑わず」という事から40歳を「不惑」と言う。
しかし実際は「40となりてにっちもさっちも行かず、ただ諦めている」だけではないだろうか。
起こりうる事態をただ唯々諾々と受容するしか、道はないのである。そういう生き方してきた以上、最早戻ることなど出来ないのである。
ひたすらに、ただひたすらに今のまま惰性であと20年会社に勤める他ないのだ。
……本日、40歳の誕生日を迎えました。
我ながら、後ろ向き引きこもり人生、です。
あまりにひどい論調の記事を見たので、日本惨敗の女子マラソンについて取り上げたい。
基本、今回の野口・土佐についてはコーチ陣の責任である。土佐の外反母趾は現地入りしてからの不幸だが、これとてシューズメーカーの責任といってもいいだろう。
しかし、それらはコーチングスタッフ側の責任が大である。
そのひどい論調の記事は「個人商店体制だから」というのである。
そもそも、過去五輪で敗北したとき、理想としてマスコミが掲げた「アメリカ」はどうだったか。アメリカはもっと個人商店である。育成機関は学校だが、学校を卒業したら全員プロとして稼ぐ。従ってコーチもプロとして評価される。
今回のように、特に野口の調整ミスをしたコーチは解雇される。理由が調整ミスだから、トップアスリートは雇わない。つまり生活は維持できない。
その為コーチは必死になって怪我のない調整をさせる。その上で最強の肉体になるように、だ。
ただし例外は旦那がコーチという場合。この場合、コーチと選手は一蓮托生になる
問題は、個人商店になりきれない日本の村社会体質である。
どういう事かと言えば、個人競技である以上、他者を思いやる義理はないという事だ。野口を軸に土佐が中村をフォローできる、なんてシナリオ自体がおかしい。それは指導者の勝手な妄想であって、通常選手はその選手の為に試合をする。試合中の選手が、試合に対するレース展開を自分の為に計算する。それが本来の姿ではないか。
国家が統制してアスリートを育て上げるのは共産主義国家や環境の劣悪な国家だから出来る話である。それとて、現在は数少ないではないか。
このような事実を無視し、都合良く上層団体批判だけしていれば良いのではない。馬鹿にするにもほどがある。
(以下、特定の媒体に対する個人的嫌悪感を記述します。おいやな方は見ないでください)
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