本ブログはかつて1996年から2002年までの間活動してたWebサイト「ラウンジ忘れな草」の後継として作成されたサイトであり、そのブログツール化されて以降の投稿をお見せしています(ただし過去何度かデータを飛ばしているので、一部存在しないものもございます)。 本来は「読書感想」と「日記」と「日本社会人アメフトXLeagueの観戦記」をアップしております。 以下に歴史をまとめてありますので、どのような流れだったかはご確認頂けると思います。 ※ちょっと長いです |
①旧サイト「ラウンジ忘れな草」時代 くぼたさんがネットに入るようになったのは、会社に入ってから、西暦で言えば1995年の終わり頃である。当時はまだインターネットがブレイクしていなくて、付加価値商用通信(VAN、つまりパソコン通信)中心の頃だった。 実はパソ通を始めたのは姉の方が先で、その姉からアメフトと推理小説のサークルが存在するという話を聞いて、最初こそ姉の回線を間借りしていたが、後に自分の回線を占有して参加するようになった。 世間一般にインターネットが普及したのは、定額サービスが始まってしばらく経過した1998年頃ではないだろうか。そして、同時にパソコン通信はゆるやかに寿命を終えようとしていたと思う。というのも、その頃からから推理小説フォーラムの書き込みが激減し、Webサイトに移行していったからだ。 で、くぼたさんがホームページを始めたきっかけは、そもそも惰性である。 そう、その筈だったのだ。 故に、サイト名は当時推理小説フォーラム内サークル「佐々木丸美FC 雪の館」内で名乗っていた「ラウンジ忘れな草」をそのまま利用したのである。 なのに。 なのに、である。 何故かアメフト辛口観戦サイトとして名を馳せてしまったのである。一応、これは以下のような事情があると考えている。
全くもって、関東観戦サイトは増えない。知っている限りでも最大で4サイト存在した時期があるのみで、サイトの寿命を全うする所が出てしまうと、あとは2ちゃんねるに移行してしまった訳だから。 そして、もう一つやっかいなのは、あちらこちらでみられた「選手や元選手の乱暴な発言と態度」である。 全ての選手がそうであるとは思わないが、結果としてタッチダウン誌公式サイトの掲示板廃止騒動にしても、メーリングリスト参加者激減も、大抵は一部の人間の傍若無人な「選手や経験者が一番偉い、その他は黙ってろ馬鹿」的態度に嫌気をさして離れていったり、それに反発した者との喧嘩を見て距離を取り始めた場合が多かった、ように思う。 ちなみに、この選手と関係者の傍若無人ぶりは、特に学生の会場でも目立っていた。傍若無人と言うよりは、有料会場での競技という意識が低いというのが結論なのだろうが、そういうのを見て去っていった観客が居たのも知っている。 つまり、マイナーであるが故に、身内でコミュニティを形成して気持ちよくなってしまったからこそ、一般他者の意見を攻撃ととらえて防御するようになってしまった、のではないだろうか。あまりにも免疫がないが故に。 他の競技のように、日本統括組織に権威がなく、対一般者に対する道徳教育を含めた指導力も機動力も限られている点にも問題があると思うのだが、そのへんになると話がこじれるので保留する。 ではOB達が支援サイトを立ち上げていったか、というとそうでもない。これは一部の説なので全てに当てはまらないのだが、主流派と反主流派のゆるやかな感情的なもつれが原因で、卒業後接点が無くなるケースも見受けられるそうだ。 多くのチームの公式サイトでは、BBSでOBと現役の内輪の書き込みしかない。公式がない所では、ファンサイトの掲示板でそれが行われている。そこの書き込みを見て、一般の方がどう思うか考えた事がないのだろうか。非常に入りにくい、厭な場所になっているといあう事に気付かないのだろうか。 そんな中で、本来は「ごちゃごちゃうるさくて変な奴」で済まされるはずの我がサイトは、何を間違えたのかメインストリートにどっかり座ってしまった。 そんなこんなで、くぼたさんは妙な義務感と共にサイト更新を続けなくてはならなくなってしまったのである。分不相応すぎる状況になってしまった。 そのような精神状態に追い込まれた中で、事件は1999年に発生する。恫喝してサイトを閉鎖させようとした奴が現れた。これにより掲示板を会員制に移行したのだが、翌2000年には2ちゃんねるで叩かれた。 そのあと思い切りとへこんだのが、「人のコメントを、無断で、連盟のある集まり(私的か公的かは不明)で、コピーを回覧して特定の関係者を傷つけるのに用いられた」事(西日本社会人の応援部会のような場所で、チアに対する苦言の部分が許諾無く印刷・配布された。たまたま教えて貰った物の、公式に許諾の申請はなかった)。 結果としてそのあと「2ちゃんねる」で知人も一緒くたにして叩かれたので、知人保護の為に会員制に移行したのである。心優しい人たちが調停に入り、それでも埒が飽かないときに「もう辞めたら」と言っただけなんだけどね。それすらくぼたさんが裏で糸を引いている事にされてしまった。 そのへんに嫌気がさしてドメインを放棄したのかというと、そうでもない。 かくして、「ラウンジ忘れな草」は2003年7月末日をもって閉鎖、2003年12月までに解約手続きをした次第。実働六年二ヶ月。 残念ながら、当時のHTMLファイルはHDDクラッシュで紛失してしまった。 |
②Bunza.net初期 そうして自宅サーバ沼にどっぷりはまっていった訳なのですが、機器的・ソフト的なものは置いておく。 そこで、新たな登場人物として、親友の「文左衛門」君に参加頂き、その日記にくぼたさんが出てくるスタイルにした訳です。 ちなみにこの名前、当時会社のSEさんが勧めてくれて参加していたオンラインRPG『EverQuest』で使っていたキャラな。なにせ米国後版しかない当時なので、日本人だと解るようにしたかったのが文左衛門。 で、当初は日記サイトとして、そして蔵書目録サイトとして活動を始めた訳です。 ただ観戦記も、という声は頂いており(特にオンワードの西村さんからコメント頂いた時は恐縮しきりでした)、掲示板の方にちょぼちょぼ書いてました。 ただ、その後サーバのアップデートを繰り返すうちにダウンタイムが延びてきて、結果としていい加減観ている人が減った所で、当時流行だったブログシステムに移行したという訳です。 移行までは2003年から2007年までの4年間、日記サイトとして活動していた訳です。 その間の記録は、多分まだどこかデータベース上にあるんだと思います。 結果期にはこの期間で、色々肩の荷が下りたという所でしょうか。 その後ブログツールを導入したのですが、環境上使えたのがSerendipity(通称s9y)。ところが日本語化をょ担当されていた有志の方が撤退されてしまった関係で、バージョンアップと日本語化が出来なくなってしまったという経緯があります。そこで自分専用のブログツールもどきを開発して使っていたのが2021年までの話となります。 |
③現在 実は以前から、サーバ用PCとメインPCをそれぞれ自作キットで構築していましたが、4年ごとの更新が重荷になって来たというのが1つ。それからHDD容量の肥大化(個人的にはシステム系の領域に2GB、ファイルエリアに1台丸々あてる事でディスク破損を避ける狙いがあったのですが、システム系用のメディアが流通しない、オーバースペック状態になっていた)の都合、SSD主流のストレージ環境(使っていたOSのFreeBSDが普通のままだとSSDに入らない。でもそういう情報がどんどん細ってきていた)など、困った事ばかりになりました。 そこで一念発起してRaspberry Pi環境でサーバ構築してみることにしました。
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