久保田は復刊運動に参加しなかったけれど、それは復刊という行為を否定するものではない。
実際の問題として、中古市場で妙な高騰をしなければ、多少の傷みはあれど全巻入手可能だし、図書館によっては全巻開架している場所もある。それを越えての復刊要求をする価値が久保田に見いだせなかっただけであり、そこに価値を見いだした人たちの価値観を否定する物ではない。
そもそも復刊という行為は
- その作家の全容を知りたいが為の独占欲の為せる技
- その作品を読んで、初読当時などを思い出すノスタルジー
- コレクター衝動
- 過去の道程を示すための記念碑めいた行為
- 自分の趣味を他人に押しつける布教行為の道具
といった意味でしか成立しないものである。
いずれも「買い手側の事情」であり、いずれも需要である。
当然この需要がある一定の条件を満たせば、供給側は利益を維持できる事になり、収支バランスが取れる。
出版社はあくまで商活動なので、収支バランスが取れなければ供給しない。これは当然の摂理である。
※当然文化事業の側面も否定しないが、自分が倒れたら意味がない。過去、それで財産的失敗を犯した出版人は沢山いる。典型例は「幻影城」の島崎博。折角のコレクションが散逸したのは、雑誌継続よりも日本推理文壇には痛手だった。
従って、この収支バランスの間隙を縫うように「同人による復刊」という手も存在する(典型例は天城一を特集した「別冊シャレード」。ちなみに戦前の推理小説専門誌の大半は「ぷろふいる」「シュピオ」のように同人誌の市場流通と呼んでも差し支えないものばかりである)。
または、希望数から需要予測して在庫リスクを抑えて刊行することも出来る。今回の佐々木丸美復刊の中軸となったブッキングが運営する「復刊ドットコム」は、この手法である。
ところで、出版にはもう一つの需要と供給がある。
書き手と、出版社の関係である。
書き手という供給者が、どんなに物を供給しようと、市場が求めなければ出版は成立しない。その市場リサーチをする出版社が求めないものであれば、作品は世に出て行かない。
いずれにせよ、需要にマッチしないものは売れない。需要を喚起する為の付加価値がどうしても必要になる。
その為の旧作復刊は、作家にとってメリットである。
しかし、佐々木丸美はそれを拒んだのである。新作で評価されたい、懐旧的に扱われたくない、という理由で。
それはしかし、作家として問題だったのではないか、と久保田は思うのである。
一度世に放たれた作品は、音楽であれ絵画であれ小説であれ、全て著作者ではなく読者が生殺与奪権を握る。
作者が出来ることは、作品を殺す(自分の権限で複製を拒む-小説では再版を認めない事-権利はある、という意味)事だけだが、それは時として作者の傲慢に他ならない。
作者が作品を殺すことは、すなわち過去の活動が間違っていたという事に他ならない。
たとえば「長編化したので、短編は封印」とか「重大な事実誤認があったので、出版は関係者に迷惑となるので封印」とか、そういう事であれば作品を殺さざるを得ない。
しかし、それ以外の理由で作品を殺す権利が作家にあるのだろうか?
ここが、復刊反対意見の人たちと久保田の大きな違いなのである。
(また数日後に続きを書きます)