とあるところで、嫌煙権至上主義者が「禁煙しないこと」についてなんか書いておられたので(多分その方、およびその場をご覧になっている方はここをご覧になってないと思いますし、私がそこを見ていることをご存じないと思います)。
正直に申し上げてしまうと、「嫌煙権至上主義者」というより「煙草害悪論絶対主義者」という気がして、そういう人に対して嫌悪感を抱くのでございまして。
※ついでに言うと、発言小町に多数生息する「法律でなってないから、夫の親は自分の親ではない嫁」にも嫌悪があります。あと、「運動不足だから運動しなさい。運動すればストレスも解放される」と通り一遍の事しか言えないアホ産業医にもね。
そもそも「権利」とは何か。
これは難しい議論なんですけど、一派感論としていうと
「所属する社会環境において、その環境維持における義務を果たしたことによって自らの利益を守ることを主張しうる資格、および行動」
だと考えられます……法律論的には。従って、準拠しうるものは「所属する社会環境」の中のことです。
従って、それを国家社会や行政区分において示すと、絶対守らねばならないのは「法律」であり「規則」な訳です。
ちなみに、これは明文化されたもの、とは限らない訳で、そこが問題。
そこを見ないふりして偉そうに語るのがアメリカかぶれ、という事。
アメリカンのような他民族移民国家の場合、その入植地ごとに元々の風習があるから、そこの風習について明文化していおかないと「問題解決」が出来ないので、各地域毎の決めこどを明文化している訳です。これが行政区単位で積み上がって、国益を守るべく「合衆国の法律」があり、下位概念して「州の法律」が存在する訳です。
マイノリティの権利は相当遅れて合衆国法側から降りてきた。いわゆる農奴に関する権利は、南北戦争時の政治的傾向である。先住民の保護は「希少動物扱い」である。まっとう正面から権利を語った事例なんてありはしないのですよ。
なので、いまだにマイノリティ差別が続いてるのは、それが「文化」という不文律でかたどられた「所属する社会環境」が立ち位置だから、なのです。
従って、このような社会学的側面から見た場合、「権利」=「説明不能なまでに社会に浸透した不文律に対して、屁理屈と言われようとも理詰めで説得して変化を起こさせる物」となる訳です。
で、嫌煙権。実は禁煙は日本に葉煙草喫煙文化が入ってきた(確か南蛮貿易が契機だから)室町時代末期から、特段厳しい制限が課せられていた訳ではない(し、取り締まりが出来た訳ではない)。法律上未成年の喫煙が禁止されたのは明治33年だそうだけど、年齢の記載は昭和22年だそうだ。ちなみに戦前の小説を読むと、明らかに高等小学校程度の年齢の未就労者(いわゆる不良少年)が煙草を吸うことをとがめる描写はないんですよね。
このような事から考えて「喫煙」は文化なんですよ。
だから、嫌煙権は文化に対して理屈で楔を打つ行為です。それ自体に何の問題もありません……その適応範囲が「自分とか自分の家族」に関わる範囲であれば、という話です。
つまり「私は、私の家族は、受動喫煙をしたくありません」という権利はあるんです、それは人間らしく生きる権利として、ね。
でもそれを「健康に悪い喫煙は誰彼なく辞めるべきである」とか「子供たちが見てあこがれてしまったら」とか、そういう妙な理屈で社会正義に仕立て上げて正義の行使のように言うのは、私は反対ですね。
(反対するのも権利ですから)
ぶっちゃけ、嫌煙権とは「私が嫌」という権利に過ぎないのですよ。社会正義を名乗る資格なんてないんです。単なるエゴ。煙草吸う人と大差ない、きわめてちっちゃなエゴイズムの一つに過ぎないんです。但し、「健康に生活する権利」と「嫌な物を拒絶する権利」において、要求することは正当な資格に基づいている範囲の、エゴです。
エゴ、と言われてムッとする人もいるでしょうが、ここでは「自己主張」と言い換えてもいいですよ。エゴとエゴのぶつかり合いを調整するのが「約束事」なんであって。そんなものは時代と共に変容するもんです。
ですので、「自分の子供に煙草を吸っている人の姿を見せたくない」という権利はあったとしても「他人の子供が喫煙する姿を見て煙草を吸うきっかけになるかも知れないから、喫煙は廃止すべきだ」という権利は世の中に存在し得ない。なぜならば、その子供が煙草を吸うかすわないかは、その子供の家庭の教育指針です。抑止できない事はその家庭の脇が甘いだけの話、嫌煙権主張者の利益には全く関与しないですよね? 従ってそんな権利は嫌煙権の範囲ではないのです。
煙草というものを廃止させたかったら、政治家になって法律を変えれば良いだけです。いや、だけではない。煙草を廃止するということは、国内にいる葉煙草生産農家に「死ね、のたれ死ね」と言うことですから、彼らが「葉煙草作ることにメリットがない。自分たちの生活を守るために割のいい仕事がある」という方向に舵を切らせる努力もしっかりして転作対策をしっかりして、また昔の専売制度の名残で残っている町のたばこ屋さんも転業促進して、という大局的に追い詰める事が出来て初めて廃止できるんじゃないですか?
よくアメリカのスポーツでは煙草は絶対吸わない、という意見を聞きますけど、逆に大麻やマリファナで検挙されて保釈金ですぐ出てくる奴多いですよね?(ついでに言うと、追放された後の事は報道されてないだけですよね)。飲酒に寛容な文化でありながら、飲酒事故多発してますよね? そういう比較の点で、本当に禁煙行為だけが正義なんですかね。私は疑問です。
とはいえ、個人的に「嫌煙権」を行使する方を否定している訳ではありません。かつて喫煙者だった私としては、彼らに不快な思いをさせた事について、ちっとは反省してますし、彼らが「嫌っ」ていうなら、彼らの権利を守る義務が喫煙者にはあると思いますよ。
そもそも喫煙者の低いモラル(喫煙所で無いところで平気で煙草吸ってポイ捨て、とか。そうやって自分の首絞めてる訳だからね)が嫌ですから。
ただ、「喫煙権は正義!」とか抜かすんだったら、それは「ふざけんな」と言うだけです。
正義なんて相対的なもんなんだから。
※国家的に健康に言及するのは、「納税義務を果たせる人間を多く確保する為」という経済学的な意見があります。ただ粋すぎた結果が「老人介護にそれ以上に金を出す」ということになっている事も事実ですが。あ、いえ「長生きして欲しい」と願う権利は阻害いたしませんよ。ただ、学問統計的な話ですからね、これは。